第11回 故・坂上二郎さん
いつも心に太陽を―。
『最後に残ったものは、舞台への情熱。これが脳梗塞をぶっ飛ばし、奇跡的な復活をかなえてくれました』
故・坂上二郎さんといえば、忘れられないのが、脳梗塞に倒れたものの、その奇跡的な復活で、同病に悩む多くの人たちを元気づけたことです。
倒れたのが2003年9月。しかし辛く苦しいリハビリを経て、翌年の6月には、もう舞台で見事な復活を果たしました。
その気力体力の源は、「舞台への情熱」だったと生前語っていました。
(坂上さんの生前インタビューを再録)
■青天のへきれき「脳梗塞」
健康には自信家だった坂上さんに、全く予想もしなかった出来事が起きたのは、2003年の9月のこと。それは突然の脳梗塞でした。
健康が即仕事に繋がる職業のため、常に体には気を配り、20年もの間、1日1時間以上を歩き、体重にも気をつけながら食事をとってきました。そのため定期的な健康診断でも、多少高めな血糖値以外は、特に異常もなかったそうです。
「今思えば、水太りしたくなかったので、あまり水を飲まなかった。それがよくなかったのかも。コント55号の時代でも、汗びっしょりの舞台の後も、水はほとんど口にしなかったですからね」
脳梗塞は、脳の血管がつまって、脳に血液が届かなくなってしまう病気。昔から水分を十分にとらなかったことが、血流を悪くしていたのかもしれません。
坂上さんが脳梗塞に襲われたのは、ゴルフ場のプレーの最中でした。ボールを打とうとクラブを握ろうとしても、左手が届かず、たれ下がったままだったのです。その日一緒に回っていた主治医が、坂上さんの異変に気づいて声をかけましたが、すでに坂上さんのろれつは回らない状態でした。
これは脳梗塞だと判断し、主治医は慎重に坂上さんを芝生の上に寝かせました。脳梗塞の発作が発生した時は、身体を動かさないように安静にして、早急に救急車を呼ぶことが、命を救うコツだといいます。
救急車は、ゴルフ場の判断でコースの近くまで駆けつけることができ、これが脳へのダメージを最小限に抑えたようです。すぐに坂上さんは、主治医の病院に運ばれました。
■辛いリハビリを通して
入院して数日間は、坂上さんは意識を失っていたということです。脳梗塞による脳のダメージが重く、幸い命には別状がなかったものの、顔の左半分と左手がマヒして、言葉もうまくしゃべれない状態でした。
しかし入院して1週間もたつと、坂上さんはもうリハビリを始めました。しかし最初のタオルの上の大豆を箱に入れるという運動さえできず、自分の体が自分ではなくなってしまったことに驚いたといいます。
「おいおい、自分はどうなっちまったんだって、最初はホント、うろたえたね。脳の病気だけにもう『オー、ノー!』(笑)。リハビリがね、これがなかなか辛くて苦しいの。でもリハビリをやらなければ元には戻らないでしょ。頑張って少しずつ前に進みました。すると今まで思い通りに動かなかった左手で、ドアが閉められた、シャツのボタンがとめられた、って体が回復をはじめてね。健康な人には当たり前の動きが、自分でもできるようになってくると、なんだかすごく救われた気持ちになって、感激しちゃいましたよ」
後日談だが、リハビリの専門医が坂上さんの脳のCT画像を見て、「よくもまあ、この状態でここまで回復できましたね」と驚いたとか。
■イライラと不安に襲われた毎日
しかしそこまで至るには、決して平たんな日々ではありませんでした。動かない自分の体に怒りをぶつけ、看護婦さんや奥さんに不満を爆発させた日も。
そして一番怖かったのが、もう二度と舞台には立てないのではないかという思いだったそうです。
また病気で倒れたことをマスコミに伏せていたため、入院中も病室にこもりきりで、噂が立たないように他の患者さんの目を避けていました。
「このことでママ(坂上さんの奥さん)に、本当に苦労をさせてしまって。家に仕事の電話がかかってきても、今地方公演に出かけています、とか言って、ごまかしていたそうです。でもそんなウソいつまでも通用しないでしょ。するとね、電話が鳴ると困るから、彼女、電話線を抜いてしまったんだよね」
■「舞台に上がる」という大きな目標に生かされた
毎日襲われる自分の今の境遇へのイライラや不安、怒りにも負けず、それでも坂上さんは根気よくリハビリを続けました。
どこにそんな気力があったのですか、と質問すると「もう一度舞台に立つんだという、強い思いが僕を支えてくれたんですねえ」という言葉が返ってきました。
「実は脳梗塞で倒れた翌年の6月に、明治座でコント55号がメインの、1ヶ月公演がすでに予定されていたんです。これにはなんとしても出るぞと。この舞台への執念というか情熱というか、これが私の復活への大きな原動力になりました。舞台に出るという目標がなかったら、ここまで回復するのは難しかったでしょうねえ」
坂上さんのそんな想いを知って、リハビリの先生も『いまの坂上さんにとって、舞台への気持ちが最高のリハビリです。絶対6月の舞台に出て下さいね』と言ってくれたそうです。この言葉は坂上さんには、天の声に聞こえたと言います。
でもこの6月の舞台について、相棒の萩本欽一さんからは痛い一言が。
「二郎さん、車いすでもいいから出てよね」
この言葉に「それじゃあ、喜劇が悲劇になっちゃうよ」とカチン。
冗談じゃないと、意地でも治って出てやるというファイトが湧いてきたそうです。でも後になってみれば、あれは欽ちゃん一流の励ましだったことがしみじみ分かって、涙が出たそうです。
「あのとき『無理せずに、いつか元気になった時に一緒にやろうよ』なんて優しいこと言われていたら、もう舞台復帰は本当にできなかったでしょうね」
■牧伸二さんの「心に太陽を」
昭和9年会の仲間の一人でもある、牧伸二さんの「心に太陽を」というお見舞いの書も、坂上さんの心を大きく勇気づけてくれました。
「最初に書を目にした時、『なるほど、心に太陽かあ』と。『どんな時でも輝く太陽のように、心をサンサンと燃やしてがんばらなきゃな』という思いが湧いてきたんです。するとね、体からスッと病気が抜けていった感じがしましてね、驚きました。それからは、苦しさを感じるたびに、その書を眺めて『くじけるな、負けるなよ』って、自分で自分を励まし続けました」
■舞台が奇跡のリハビリの場に
坂上さんはろれつが回らない舌で発声練習をはじめるなど、6月の舞台に立つという夢を実現するために、少しづつたゆまず努力を続けていきました。その成果もあり、坂上さんの体や声の状態は回復を始めます。
しかしこうした日常動作と舞台はまた別の話です。
リハーサルに入ると、肝心のセリフを忘れてしまう、舌がうまくまわらない、声が出ない、体が思ったように動かないなどの状態が、本番前日まで続きました。また一か月続けての公演では、舞台独特の集中力や気力、体力が必要です。さまざまな不安に包まれながら、坂上さんは舞台初日を迎えました。
「自分の出番を待ちながら、本当に声が出るのか、セリフが言えるのかと、もう気がかりで仕方ありませんでした。そしてついに自分の出番が―。登場は扇子で顔を隠して、舞台の中央に立つ欽ちゃんのところへ出ていくというものでしたが、扇子をはずしたとたん、客席がどよめいたんです。そして客席からは『二郎さんがんばれー!』という声も。するともう無意識に『みなさんにはご心配をおかけしました。でもご覧の通り、元気になりました。最後までよろしくお願いします』と挨拶していたんです。わー、言葉がスラスラ出た! ちゃんと言えた! もう大丈夫だ! っていう確信と感動が湧いてきてね、それまでのカチカチの緊張が嘘のように消えて、体が軽くなりました」
それからは、せりふを言って、舞台を走って、そして歌うという中で、以前の勘を本格的に取り戻していったそうです。舞台が最高のリハビリとなり、スピーディに坂上さんの回復を早めてくれたのでした。
こうして無事千秋楽を迎えることができて、坂上さんは感無量。
「舞台終了後の挨拶では、途中、思わず涙がこぼれちゃってね。気がつくと共演者の方々も、お客さんも、なみだ涙。僕と一緒に泣いてくれていたんです」
坂上さんは役者冥利に尽きる気持ちを、この時しみじみと噛みしめたと言います。
「欽ちゃんが涙が止まらないぼくの肩を抱いて、『二郎さんが泣くなんてめずらしいね。だれかハンカチ持ってないの?』と声をかけてくれました。欽ちゃんには、本当に迷惑をかけてしまった。それだけでなく、必死で回復を目指す僕に、我慢強くつき合ってもくれました。もういくら感謝しても、感謝しきれません。それとこの1ヶ月を、本当によく乗り越えたなあという思いが湧いてきて、あの時ばかりは涙を止めることができませんでした」
(第11回 坂上二郎さん インタビュー 終わり)
故・坂上二郎さん
1934年4月16日 - 2011年3月10日
「那須お笑い学校にて」
(左・剛州さん 右・ルー大柴さん)