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NPOおばあちゃんの知恵袋の会は我が国に伝わる健康の知恵や暮らしの知恵を、次世代へと伝えていく特定非営利活動法人です。

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著名人が語るおばあちゃんの知恵袋

第14回 矢追純一さん


過酷な体験でつかんだ「楽に生きるコツ」とは?


矢追 純一さん
「空を見てほしいと考えたからUFO番組を作った」

■空を見てほしい! だから、UFO番組を作った

  矢追純一さんは、日本テレビのディレクターとして活躍した。「11PM」「木曜スペシャル」などを担当。UFO番組や、超能力番組を制作した。スプーン曲げで大きな話題を集めた、ユリゲラー氏の番組を制作したのも矢追さんだ。
 日本テレビを退職後、矢追氏はフリーのディレクター、プロデューサーとなる。地球環境問題やUFO問題を中心に、テレビ、ビデオ、ラジオの番組制作、出演と活躍してきた。さらに著述、講演、取材などで世界中を飛び回っている。

 そんな矢追氏が、そもそも「11PM」でUFOの番組を作ろうと考えた理由は、一体何だったのだろうか?

「視聴者に、空を見てほしいと考えたからです」(矢追さん)

 番組が作られたのは1973年(昭和48年)。ちょうど高度経済成長が終わり、その後の安定成長期に移行する頃だった。

「今でも日本人はそうかもしれないけど、その頃、急いで街を歩いている人が多いことが気になっていたんです。用があってもなくても、とにかく急ぐ。それに、前方一点を見すえて、まるでゾンビのように歩いている人がほとんどでした。
そのままだと、将来日本人は行き詰まってしまうかもしれないし、日本全体が煮詰まってしまうかもしれない。そんなことにならないよう、もう少し余裕をもってほしい。急いでいても、時々立ち止まって空を見る余裕をもってほしいと考えたんです 」

 しかし、単に空を見せるだけでは、番組として成り立たない。どうしたらいいか考えた矢追さんは、思わぬところでヒントを手にした。それは、書店で手にした本だった。

「空飛ぶ円盤の本でした。読んでみると、円盤に乗って宇宙人が地球に来ているらしい、と書いてある。『これは面白い。UFOの番組を作ろう』とその場で決めました。そして、宇宙人が乗ったUFOが来ているかもしれないから、みんなで空を探してみましょう、という感じの番組が完成しました」


■予測はストレスの元。「僕は、とっくに捨てました」

 矢追さんが作ったUFO番組は高い視聴率を記録。すぐさま第2弾が制作されることに決まった。

「僕は自分から売り込んでいくことが苦手でね。『これをやりたい』『これができます』と、あまり言わないんですよ。その後も、プロデューサーが『矢追、またやれよ』と声をかけてくれたから、番組を作ってきました。誰も何も言わなかったら、何もしないタイプですね」

 とはいえ番組を制作するうちに、矢追さんの所にさまざまなUFOの情報が集まるようになった。中には、地球に宇宙人が来ていると考えざるを得ない情報もあったという。

「でも、世の中いろいろなことが起こるじゃないですか。UFOがいても当たり前、いなくても当たり前。どっちだっていいんですよ。そんなことはね。
『もしも宇宙人が攻めてきたらどうしようか?』などと心配していても、しょうがないでしょう。万が一攻めてきたら、そのときに考えればいいんですよ 」

 いくら将来のことを考え、予測をしても無意味ではないか。それが矢追さんの考え方だ。

「たとえば、気象庁は世界最高クラスのコンピュータに、ありとあらゆるデータを入れて天気予報を出しているそうです。それでも当たらないことが多いでしょう。僕らが生きている世界は、一瞬一瞬変化している。だから、予測が当たらないんです。 僕だって、ほんとうに当たるものなら、予測をしますよ。でも、これまでの人生で当たった試しがないからね(笑)。僕は、とっくに捨てました 」

 矢追さんは「予測がストレスの原因になっていると思う」とも話してくれた。一生懸命考え、未来を予測してみても、そのこと自体が不安の種になることがある。また、せっかくの予測も外れることが多いため、そのことがイライラの元になるからだ。


■満州での過酷な経験。そのおかげで気づいたこととは?

「とっくに予測はやめた」と語る矢追さん。では、どんな生き方をしているのだろう?


矢追 純一さん
「予測はストレスの元。僕は、とっくに捨てました」

「自分が、今でもこうして生き残っていることだけでもすごいことだと。僕と同じ時代を生きてきた方が、数え切れないほど亡くなっています。せめて、今こうして生きていることを楽しまなければ申し訳ないと思っています」

 矢追さんは、旧満州国で生まれた。父はエリート官僚。当時珍しかった冷暖房つきの鉄筋コンクリートで、父が自ら設計した白亜の超高級ハウスに住み、使用人もいる生活を送っていた。
 しかし、矢追さんが10歳のとき、日本は第二次世界大戦に敗戦。手のひらを返したように、中国人の使用人から「家から出ていけ」と脅され、零下20度の極寒の大地に放り出された。
 満州で豊かな生活を送っていた頃、矢追さんは神経過敏で対人恐怖症ぎみで、今で言う不登校の状態だった。その上身体も弱く、年の半分以上は病院に入院していた。
 そんなひ弱な少年を、満州で生きのびるための過酷な生活が別人に